がん患者の妻と生きていくこと

30代すい臓がん、絨毛がん経験者の妻と生活しています。人のありがたさを感じる10年でした!日々のケア等でコメントに回答はできないと思いますが、ご容赦くださいませm(__)m 私の気持ちを吐露することにお付き合いいただければ幸甚です。

栄養補給

実は栄養剤がここ数日入っていない。聞くと、緩和の先生に、「希望次第」でと言われているとのこと。

足のむくみがひどく、予後等を考えての対応かと思う。

なぜか釈然としない。本人も、むくみ等が相当つらいのか、栄養等の補液はしなくてもよいと言っている。

本人の希望、家族の希望、どちらをどこまで優先するかという話なのかと思う。

本人はとにかく、在宅治療。入院はあり得ない。

 

確かに、妻もわかっている。

今の状態で積極的抗がん剤治療をしないのであれば、疼痛コントロールと栄養補給、これであれば、病院でも在宅でも一緒である。

であれば、当然家で、となる。

 

がん死なのか栄養失調なのか、と考える。

補液が本人にとってつらい、栄養状態も劇的に改善するわけでもない、となればそうなのか。

少しでも栄養を吸収してもらいたい、このままではジリ貧である、これが家族。

緩和医いわく、理論的な話をすれば、ビーフリードでアルブミン値が大幅に改善するわけでもない、むくみがある等、水分は体に良くない、枯れてくれば、ケトン体が出て、穏やかに逝ける。

先ほど、父親と家族会議をした。理屈ではなく、栄養が少しでも入ればとやはり感じているようだ。週一回、二回でもいいから補液をすることを提案したい。

妻も、家族の気持ちがわかっているからそうしようかなとも言っている。

どの選択をしても、後悔は残ると思う。ただ、家族みんなで、患者と家族の双方の理解が必要だと思う。

 

訪問看護

病院の提案で、訪問看護が利用できることになった。これは盲点だった。

ジジババのみの利用であるイメージであったが、確かに必要な人には保険で適用される制度。

先生に指示せんを書いていただく。

入院は絶対に嫌なようだ。確かに現在の状況では、病院であっても家であっても変わりない。

毎日、看護師さんが来てくれる。24時間電話していいとのこと。薬剤師もアパート2階まで薬を持ってきてくれる。

往診も週1~2回。麻薬の増量や精神的ケア含めいろいろやってくれる。

病気との闘いが始まった10年前からずっと思っていたが、日本の皆保険制度、本当にすばらしい。

会社とそして国民に半分づつ支えられている。ありがたい。助け合いの日本。この制度を維持していただきたい。

食事がとれない

ここ最近。

食事が全くとれない。吐いてしまってダメ。ビーフリードを2日に一回

入れていたが、それもやめるとのこと。むくみがひどいため。先生の提案。

歩くこともままならない。無論、外出など到底無理な話。

痛みとだるさで虫のようにうずくまっている。

マッサージをしてあげるが、いつも目が半開きのように見える。

なぜ、こんなつらいことが起こるのか。かわいそうすぎる。

私の見立てでは、一か月なのかなという気がする。根拠はない。

36歳の若さで、もう頑張らないことを受け入れたいという言葉が出てきた。

天は、本当につらい試練を与える。亡くなる一か月前くらいが一番本人も周りもつらい気がする。

だが、できることを一日一日。死ぬまでにできることはたくさんある。

勝手に未来を決めつけたらみんなかわいそう。一緒の時間を大切にしたい。

だが、入りすぎない。自分が壊れるから。

今日もテニスに向かう。

今できること

今できることをやっていく。これしかない。

のめりこみすぎないようにしながら。支えるほうがつぶれてしまう。俺は俺。妻は妻。どうしても、私は、周りの出来事を自分に投影してしまう癖がある。

妻のできることを、人の力を借りながらサポート。一日一日。

妻の病歴②

再発から、また抗がん剤治療。再び、嘔吐、下痢、何でもござれの治療開始。忍耐で耐える。しかし、今度は腫瘍マーカーが下がらない。ほんとは妊娠していたのではないか?疑問が渦巻く。臨床的にはありえない。

効くか効かないかわからない治療。妻もよく耐えた。もう何度、嘔吐し、寝込んだことだろう。

妻も私も、周りの方のサポート、私に関しては、趣味のスポーツ・先輩・後輩のおかげで日々過ごせていた。

 

効かない治療、その原因がある日わかった。何気なく見ていただいた読影の先生から、「主膵管がわずかに拡張している。」とのレポート。まさか。確かにCA19-9も微増していた。

仕事の合間を見て、セカンドオピニオンを繰り返した。

確定診断の結果、膵腺癌だった。幸いステージⅡ。(後にⅢに変更。)

 

神仏はこの世にあるのか。

 

術後、ほどなくして再発。好発部位のリンパ節に転移していた。

アブラキサン(nab-ptx)を始めた。副作用がひどい。手のしびれ。全身倦怠感。

そんなこんなが2年間。笑顔を失っていく妻に癒されない自分。眠いか痛いしか言わない。フラストレーションがたまっていく自分。結婚して初めて手を上げそうになった。泣いた。限界を感じた。

老々介護で相手を殺してしまう、気持ちがよく分かる。

大事にしているからこその行動だと思う。自分に変な偽りの優しさがなければ、妻を実家に送り返し、介護放棄しているだろう。だが、どうしてもできなかった。

 

そして現在。ついに、背部痛を訴え始めた。

内臓神経ブロック施行。著明な効果なし。

 

この病気のおそろしさは、寝ているときに痛くなるという点。昼間つらいから、寝ようとすると激痛で寝られない。こんな地獄があるだろうか。痛い痛いと繰り返す。麻薬を投与しているがこんな状態。昼間は眠い。かわいそうすぎる。

マオさんの訃報。これは堪えた。海老蔵さんは俺と同じ年。本当につらい。

昨日、訪問看護がスタートした。あんなに気丈であった妻が、過呼吸を繰り返し、不安発作を起こし、メンタル崩壊している。私も2年前から不眠・不安で安定剤を服用しているが、まさか自分と同じになるとは夢にも思わなかった。

妻の病歴①

ブログはやらないと決めていたが、チャレンジすることにした。

妻は30代中盤、膵癌患者。

10年前、我々は結婚した。ほどなくつわりのような症状が出て、喜びの中、産婦人科を受診。エコーに映し出されたのは、卵ではなく、よくわからない物体。

妻は胞状奇胎に罹患した。

すぐに掻把し、3年がたったある日、激しい頭痛。妻の勤務先(病院)で倒れた。

同じくつわりのような症状を伴っていたため、今度こそ妊娠か、ということで、お義母さんが群馬に。子供のことを考えるとCTは撮れないというが、頭痛で悶える姿から、命に代えられないので、すぐに撮影。映し出されたのは、脳に大きく映る二つの影。誰が見ても「終わりだ」と思う画像。その場で家族は卒倒。私は、涙が止まらなかった。

絨毛癌を告げられた。前の胞状奇胎の癌化。200万人に一人くらいの罹患率らしい。

同級生の医師に本当に助けられた。この病気は、抗がん剤がかなり効く。まだまだいける。同級生に神を見た。

地元の大学病院、稀有なこの病気で先進的な慶応病院、セカンドオピニオンに走り回る。

紹介状に加え、私もレポートを作る。

どこでも、予後不良の一言。

痛い痛いと毎日泣き叫ぶ日々。何もしてあげられなかった。何度病院に泊まったことだろうか。今となっては懐かしい。家族を集めてと、初めて看護主任さんにいわれた。

そんな状況がモルヒネで一変した。顔が笑顔になり、麻薬ってすげえなと感心した。

ガンマナイフ、EMA3剤併用療法で、腫瘍は確実に小さくなっていった。

つけっぱなしのルートで、菌血症に、大腸菌が体を駆け巡り、血圧は低下。家族が呼ばれた2回目のこと。再び生還した。

奇跡は起き、寛解

それから5年。それが2年前。病気の悪性度(転移しやすさ)から判断しても、5年は寛解から「治癒」への判断。5年間の間は、大きな体の変化もなかった。沖縄に行ったり、モルディブに行ったり、色々旅行した。

そして、化学療法の後遺症と闘いながらも、妊活を決意。妊娠のマーカーに変化が。

hcgというマーカー、普通では妊娠兆候のマーカーだが、皮肉にも、癌の再発と同じマーカー。

通常では考えられない性周期でのマーカー発現。またも妊娠を目前として、病気再発となり、治療を開始することとなった。