がん患者の妻と生きていくこと

30代すい臓がん、絨毛がん経験者の妻と生活しています。人のありがたさを感じる10年でした!日々のケア等でコメントに回答はできないと思いますが、ご容赦くださいませm(__)m 私の気持ちを吐露することにお付き合いいただければ幸甚です。

一周忌

先ほど、一周忌法要を執り行い、故人を囲んでランチを食べて解散となりました。

あっという間の一年でした。

古来からの行事ってほんとよく出来てるなって思います。

 

故人を含め、各人がみんな幸せに過ごしていけるようお祈りしたいです(^^)

家の近くに伊与久沼という沼があります。毎年、この時期に花が咲きます。白と赤のきれいな花です。お釈迦様に通ずる花、この時期に咲くことにスピリチュアルなものを感じます。

観光客の方もチラホラ見ます。ぜひお越しください。


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誕生日

お久しぶりです。

4月26日は、妻の誕生日でした。いろいろいただいた方につきましては、お気持ちありがとうございました。

一周忌は7月8日に行うことにしました。

このブログも、当初は頻度多く更新するつもりでしたが、諸般の理由でやめました。

一つとして、いつまでも一場所に留まっていられないこと、があります。

死別した時の状況で、いろいろ故人への接し方って変わってくるんだと思います。

もし、子供がいたら、年齢が10歳若かったら、60歳以上で死別したら・・・等いろいろ生活の状況や家族との関係などです。

私は現在の状況を考え、過去に目を向け続けずに、前に向いていこうと考えて過ごしています。

もっとシルバーだったら、そうですねえ、遺影に毎日話しかけているかもしれません。

私は、「平行」の考え方がいいんじゃないかと思っています。

長く付き合った彼女がいて別れたケースでもしかりですが、過去の思い出、記憶は決して消えることはないと思います。

現在の生活の中で、たまに思い出すような感じ、今は今、過去は過去という平行軸を持っていくのが自分のなかでの落としどころかなと考えています。

しかし、妻の思い出の場所、音楽等に触れるにつれ、去来する感情を抑えきれない部分は多々ありますが、現在の生活に目を向け、過ごしていきたいと思います。

ご両親、ご兄弟は妻の思い出を携えて行く時間が多いと思います。

私の対応も薄情と思う方もいるかもしれません。

当初は、妻を忘れるまで5年以上かかるというネット情報を見て、へこむ毎日でした。

しかし、忘れる必要、「完全消去」は不要・不可能ということに気づいてから、生活が変わりました。

数年前から飽きっぽい私がはまっているゲームがあります。メビウスファイナルファンタジーというゲームで、主人公が困難を乗り越えていくゲームです。

随所で励まされるセリフが出てくるので、おススメです。

ファイナルファンタジー10の名セリフが一番最近では心を打ちました。

「時々思い出してください、いなくなってしまった人たちのことを。」

毎日だと自分がつらすぎる、思い出さなくなってしまうのも故人が寂しすぎる、今を大事にして時々思い出すのがいいんだと思います。

これからも今を大事に、少しづつ前に進んで行きたいです。

没イチっていうらしいです

こんなサイトがありました。

https://shibetu.jimdo.com

近親者との死別っていろいろありますが、配偶者はやはり時間がかかるようですね。

確かに、親とかのケースだと「〇〇死んじゃったけど、寂しいよねー」と嫁に言えますが、嫁が死ぬと気軽に話せる日常的にいる相手がいないってのはキツいですね。

グリーフケアとかでも、親の死別である程度整理できた方が、配偶者死別の方に、早く立ち直れ、と迫り苦しめてしまうというケースが多いと聞きました。

妻が死んでしまったので、私の話が主になってしまうかと思います。そういった意味で、気になる方は、今後閲覧をお控えいただければと思います。

それで、ご理解いただきたいことですが、私もこれからどのくらいで、ある程度の整理ができるかわかりません。

私には幸い、相談できる方がいる方だと思います。

上記URLにもあるとおり、死別経験者でないと、相談が空回りみたいなことが書いてあります。

私はそうは思いません。

例えば…、自分は相手のことが好きだったけど、振られちゃって別れたケース、とかの体験談が、私には近いのでしょうか…。

こういったことは、「時間薬」が必要らしいです。

なので、皆さんも人生で抱えていらした問題を時間薬で解決することを念頭に、私の話を聞いていただければ幸いです。

あと、ここに苦しむようですが、相当に時間がかかる可能性があるというところをご理解いただき、気長に相談に乗っていただけるともっと助かります。

最後に、掲示板、相談会含めて、いい所あるよみたいな情報があれば、今後に備えて知っておきたいと思ってますので、コメント、個別連絡等で是非教えてくださいm(_ _)m

よろしくお願いします。

お別れの儀

告別式でのあいさつのあと、お別れの儀ということで、棺を中心に据え置き、皆様に最後のお別れをしていただく場を設けさせていただきました。

ご焼香後もかなりの方が残っていただき、棺が皆様から頂戴したメッセージ、贈り物、花で埋め尽くされ、本当に妻にとって幸せな時間になったと思います。

バックナンバーには、ドリカムの「何度でも」をかけさせていただきました。3曲とも故人が大好きな曲で、故人の兄弟と私で選定しました。

皆様に故人が愛されている光景に加え、私共にかけていただいた慰労のお言葉、何より、闘病のサポートを当初から相談させていただいた数少ない方の顔を見ましたら、お恥ずかしながら涙が止まりませんでした。

荼毘にふすまで、耳は聞こえていると言います。まさに皆さんに囲まれて皆さんのお言葉に故人もさぞかし喜んだと思います。

出棺も酷暑の中、多数お見送りいただき、この場を借りて御礼申し上げます。

今は、私の実家にて後飾りとともに、骨壺が置かれ、遺影がこちらを見つめております。

8/27日曜日の四十九日儀式までこちらに安置し、同日よりお墓に入れます。

場所は、伊勢崎市日乃出町の雲晴院になります。


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最後に、今回は一般葬の形を取らなかったため、故人にお別れしたかったという方や、私の心配をしていただきつつ、本当は参加したかったが、参加することを控えたという方も多数いらっしゃるかと存じます。

故人への思いと、遺族への配慮を天秤にかけるようなことを皆様に強いてしまったこと、心よりお詫び申し上げます。

ただ、故人が生前から、大掛かりな葬儀を望んでいなかったことや、額面通りではありますが、近親者設定で、その趣旨を組んで来てくれるという方に送別していただきたいという遺族感情も、どうかご理解賜ることができれば幸いです。

今後ともどうぞよろしくお願いいたします。

告別式から

昨日、無事葬儀が終了いたしました。

近親者というご案内にもかかわらず、多数ご参会いただき、本当にありがとうございました。

通夜及び告別式は、妻が大好きだったSMAPの「ありがとう」で出迎えさせていただき、「STAY」を葬儀式中のバックナンバーとしてかけました。

私も告別式の挨拶までは、涙をこらえていようと思っていたのですが、「STAY」の歌詞にやられてしまいました。

今年は、SMAPの解散とマオさんの訃報は、末永く延期してもらいたかったです。

 

ご友人から弔辞をいただきました。

高校時代からナースを目指していたこと、本当に友人ほか皆様に愛されていたことがわかり、遺族としても感激いたしました。ありがとうございました。

 

挨拶では、妻の病歴に加え、真の看護師になってくれたということを伝えさせていただきました。他は何を語ったか覚えておりません。

その意味ですが、実は、妻は左目と左耳が聞こえません。すべて病気により後天的になったものです。左目は最初の病気により、重篤な菌血症となり、網膜にカビの塊があるため、光はあるが見えません。

左耳は、複合的な後遺症で、聞こえなくなりました。そのため、収骨時に立ち会われた方はおわかりかと思いますが、メガネと補聴器を骨壺に入れました。

ナイチンゲールは、目が見えなかったと聞きます。また、日野原先生は著書で、ナイチンゲールの話に触れ、「患者の気持ちがわかりたかったら自分が病気になればいい」とナイチンゲールの言葉を話しています。

お話ししたかったのは、病気経験有無=素晴らしい看護師、という短絡的なことではありません。

私も妻も、自分の不遇をずっと考えてきました。しかし、人生みな一緒、うちだけではないんだからと自他ともに言い聞かせてきました。

不遇になると、不遇な人の気持ちがわかるのです。目と耳、病気のこと?そうではなく、不遇な人の気持ちです。

これが、我々にとっては一番の財産でした。また、不遇な状態である砂漠では、水がおいしく感じます。人の助けもそうですし、何より「毎日平凡に終わること自体」です。

今日も一日何もなく終わった、これが何よりの喜びでした。

この相互作用を起こしてくれたのが妻だったのかなと思っています。

自分が病気にならなくても目が見えても耳が聞こえても、そういった状態の人の話、生き方を聞いて、慈愛の気持ちを抱いていただく、それを受けた側は救われる。皆さんとそんな関係になれる。笑顔で励まし会える。

 

妻と私は、そんな10年でした。