栄養補給
実は栄養剤がここ数日入っていない。聞くと、緩和の先生に、「希望次第」でと言われているとのこと。
足のむくみがひどく、予後等を考えての対応かと思う。
なぜか釈然としない。本人も、むくみ等が相当つらいのか、栄養等の補液はしなくてもよいと言っている。
本人の希望、家族の希望、どちらをどこまで優先するかという話なのかと思う。
本人はとにかく、在宅治療。入院はあり得ない。
確かに、妻もわかっている。
今の状態で積極的抗がん剤治療をしないのであれば、疼痛コントロールと栄養補給、これであれば、病院でも在宅でも一緒である。
であれば、当然家で、となる。
がん死なのか栄養失調なのか、と考える。
補液が本人にとってつらい、栄養状態も劇的に改善するわけでもない、となればそうなのか。
少しでも栄養を吸収してもらいたい、このままではジリ貧である、これが家族。
緩和医いわく、理論的な話をすれば、ビーフリードでアルブミン値が大幅に改善するわけでもない、むくみがある等、水分は体に良くない、枯れてくれば、ケトン体が出て、穏やかに逝ける。
先ほど、父親と家族会議をした。理屈ではなく、栄養が少しでも入ればとやはり感じているようだ。週一回、二回でもいいから補液をすることを提案したい。
妻も、家族の気持ちがわかっているからそうしようかなとも言っている。
どの選択をしても、後悔は残ると思う。ただ、家族みんなで、患者と家族の双方の理解が必要だと思う。
訪問看護
病院の提案で、訪問看護が利用できることになった。これは盲点だった。
ジジババのみの利用であるイメージであったが、確かに必要な人には保険で適用される制度。
先生に指示せんを書いていただく。
入院は絶対に嫌なようだ。確かに現在の状況では、病院であっても家であっても変わりない。
毎日、看護師さんが来てくれる。24時間電話していいとのこと。薬剤師もアパート2階まで薬を持ってきてくれる。
往診も週1~2回。麻薬の増量や精神的ケア含めいろいろやってくれる。
病気との闘いが始まった10年前からずっと思っていたが、日本の皆保険制度、本当にすばらしい。
会社とそして国民に半分づつ支えられている。ありがたい。助け合いの日本。この制度を維持していただきたい。
食事がとれない
ここ最近。
食事が全くとれない。吐いてしまってダメ。ビーフリードを2日に一回
入れていたが、それもやめるとのこと。むくみがひどいため。先生の提案。
歩くこともままならない。無論、外出など到底無理な話。
痛みとだるさで虫のようにうずくまっている。
マッサージをしてあげるが、いつも目が半開きのように見える。
なぜ、こんなつらいことが起こるのか。かわいそうすぎる。
私の見立てでは、一か月なのかなという気がする。根拠はない。
36歳の若さで、もう頑張らないことを受け入れたいという言葉が出てきた。
天は、本当につらい試練を与える。亡くなる一か月前くらいが一番本人も周りもつらい気がする。
だが、できることを一日一日。死ぬまでにできることはたくさんある。
勝手に未来を決めつけたらみんなかわいそう。一緒の時間を大切にしたい。
だが、入りすぎない。自分が壊れるから。
今日もテニスに向かう。
今できること
今できることをやっていく。これしかない。
のめりこみすぎないようにしながら。支えるほうがつぶれてしまう。俺は俺。妻は妻。どうしても、私は、周りの出来事を自分に投影してしまう癖がある。
妻のできることを、人の力を借りながらサポート。一日一日。
妻の病歴②
再発から、また抗がん剤治療。再び、嘔吐、下痢、何でもござれの治療開始。忍耐で耐える。しかし、今度は腫瘍マーカーが下がらない。ほんとは妊娠していたのではないか?疑問が渦巻く。臨床的にはありえない。
効くか効かないかわからない治療。妻もよく耐えた。もう何度、嘔吐し、寝込んだことだろう。
妻も私も、周りの方のサポート、私に関しては、趣味のスポーツ・先輩・後輩のおかげで日々過ごせていた。
効かない治療、その原因がある日わかった。何気なく見ていただいた読影の先生から、「主膵管がわずかに拡張している。」とのレポート。まさか。確かにCA19-9も微増していた。
仕事の合間を見て、セカンドオピニオンを繰り返した。
確定診断の結果、膵腺癌だった。幸いステージⅡ。(後にⅢに変更。)
神仏はこの世にあるのか。
術後、ほどなくして再発。好発部位のリンパ節に転移していた。
アブラキサン(nab-ptx)を始めた。副作用がひどい。手のしびれ。全身倦怠感。
そんなこんなが2年間。笑顔を失っていく妻に癒されない自分。眠いか痛いしか言わない。フラストレーションがたまっていく自分。結婚して初めて手を上げそうになった。泣いた。限界を感じた。
老々介護で相手を殺してしまう、気持ちがよく分かる。
大事にしているからこその行動だと思う。自分に変な偽りの優しさがなければ、妻を実家に送り返し、介護放棄しているだろう。だが、どうしてもできなかった。
そして現在。ついに、背部痛を訴え始めた。
内臓神経ブロック施行。著明な効果なし。
この病気のおそろしさは、寝ているときに痛くなるという点。昼間つらいから、寝ようとすると激痛で寝られない。こんな地獄があるだろうか。痛い痛いと繰り返す。麻薬を投与しているがこんな状態。昼間は眠い。かわいそうすぎる。
マオさんの訃報。これは堪えた。海老蔵さんは俺と同じ年。本当につらい。
昨日、訪問看護がスタートした。あんなに気丈であった妻が、過呼吸を繰り返し、不安発作を起こし、メンタル崩壊している。私も2年前から不眠・不安で安定剤を服用しているが、まさか自分と同じになるとは夢にも思わなかった。
妻の病歴①
ブログはやらないと決めていたが、チャレンジすることにした。
妻は30代中盤、膵癌患者。
10年前、我々は結婚した。ほどなくつわりのような症状が出て、喜びの中、産婦人科を受診。エコーに映し出されたのは、卵ではなく、よくわからない物体。
妻は胞状奇胎に罹患した。
すぐに掻把し、3年がたったある日、激しい頭痛。妻の勤務先(病院)で倒れた。
同じくつわりのような症状を伴っていたため、今度こそ妊娠か、ということで、お義母さんが群馬に。子供のことを考えるとCTは撮れないというが、頭痛で悶える姿から、命に代えられないので、すぐに撮影。映し出されたのは、脳に大きく映る二つの影。誰が見ても「終わりだ」と思う画像。その場で家族は卒倒。私は、涙が止まらなかった。
絨毛癌を告げられた。前の胞状奇胎の癌化。200万人に一人くらいの罹患率らしい。
同級生の医師に本当に助けられた。この病気は、抗がん剤がかなり効く。まだまだいける。同級生に神を見た。
地元の大学病院、稀有なこの病気で先進的な慶応病院、セカンドオピニオンに走り回る。
紹介状に加え、私もレポートを作る。
どこでも、予後不良の一言。
痛い痛いと毎日泣き叫ぶ日々。何もしてあげられなかった。何度病院に泊まったことだろうか。今となっては懐かしい。家族を集めてと、初めて看護主任さんにいわれた。
そんな状況がモルヒネで一変した。顔が笑顔になり、麻薬ってすげえなと感心した。
ガンマナイフ、EMA3剤併用療法で、腫瘍は確実に小さくなっていった。
つけっぱなしのルートで、菌血症に、大腸菌が体を駆け巡り、血圧は低下。家族が呼ばれた2回目のこと。再び生還した。
奇跡は起き、寛解。
それから5年。それが2年前。病気の悪性度(転移しやすさ)から判断しても、5年は寛解から「治癒」への判断。5年間の間は、大きな体の変化もなかった。沖縄に行ったり、モルディブに行ったり、色々旅行した。
そして、化学療法の後遺症と闘いながらも、妊活を決意。妊娠のマーカーに変化が。
hcgというマーカー、普通では妊娠兆候のマーカーだが、皮肉にも、癌の再発と同じマーカー。
通常では考えられない性周期でのマーカー発現。またも妊娠を目前として、病気再発となり、治療を開始することとなった。